軍馬塚
正蓮寺軍馬塚に眠る軍馬
正蓮寺 軍馬塚
正蓮寺の境内の一隅に、二基の自然石の軍馬の碑が並んで建っています。
「軍馬塚の碑」と「日支事変殉難軍馬の碑」です。いずれも熊本の旧第六師団野砲兵第六連隊の軍馬の碑です。
昔の軍隊は現在のように自動車が無く、機械化されていませんでした。
軍馬は、戦闘や兵員・兵器・弾薬・糧秣(りょうまつ)の輸送や運搬のため必要不可欠の存在でした。
そのため兵士は、戦場では軍馬と生死を伴にしたので、軍馬に対する愛情や思い入れは、人間と少しも変わらず、兵隊にとって愛馬進軍歌の歌詞にあるように馬は戦友でした。
軍馬塚は、日清戦争(1894~95年)が終わり、旅順口より凱旋帰国の途中、下関沖で不慮の海難事故により溺死した、野砲兵第六連隊の軍馬を葬った塚<1896年(明治29年)建碑>であり、日支事変殉難軍馬の碑には、満州事変熱河の作戦で亡くなった、同連隊の軍馬の遺骨・遺髪が送られてきました。
それを弔うために当寺の仏教婦人会が募金し、1934年(昭和9年)に建立されました。
軍馬塚は、戦歿軍馬鎮魂録(平成4年 偕行社発行)によれば、現存する全国百余基の軍馬の慰霊碑の中で最も古いもので、同連隊の大隊長樋口匡直(ひぐちまさなお)少佐が、石材を熊本市でもとめ、表に軍馬塚という碑銘を彫り、 裏に乗船した門司丸が遭難した状況を、258文字の格調高い漢文で刻み、塚石として当寺へ送られたものです。
門司港は日清戦争以来、兵たん基地として数多くの軍馬を送り出しました。
殊に1931年(昭和6年)の満州事変以来、門司港より船出した軍馬の数は百万頭に達し、その殆どが農耕馬であり、これらの馬たちは二度と故国の土を踏むことが無かったと言われています。
門司港レトロ地区の一角に、馬たちの水飲み場にあった十基のコンクリート製の水槽のうち、現存している一基が置かれています。
平成11年9月、門司郷土会会長中山主膳氏が「正蓮寺軍馬塚のはなし」を刊行。
二基の軍馬の碑の由来を述べ、軍馬塚の碑文の原文となっている、樋口少佐の陣中日誌である「日清戦争從軍実録」を紹介しています。
そして軍馬の碑や、出征軍馬の水飲み場の水槽が、戦争で犠牲になった馬たちの遺跡であり、その多くが二度と日本に戻らなかった馬たちの記録を後世に残し、戦争の悲劇と平和の尊さを伝えたいと述べています。
尚、同書の発刊は、新聞等に掲載され、軍馬塚の存在と歴史も広く市民に報道されました。
軍馬塚の碑文
碑文 ― 原漢文 ―
明治二十七年某月日清違言あり。六師清境を圧す。
越えて二十八年彼の力屈し、勢蹙り乃ち哀を我に乞う。
既にして和成る。大本営即ち振旅を命ず。
我第二大隊本部及び第四中隊亦帰国の途に就く。
六月二十五日一行門司丸に駕し、旅順口を発す。
二十八日船将に門司港に入らんとす。本国の風光歴歴として指掌の如し。
未だ数浬に達せざるに船手舵法を誤り、船は東洋丸に触る。
ごう然声あり。未だ一瞬ならざるに、潮水横流船艙に氾濫す。
事忽卒に出ず。人々倉皇としてわずかに避難す。
而して軍馬五十七頭は死り。いずれも皆群中の駿なり。
ああ、痛ましい哉。予征途に上るや、
ひそかに自ら屍を汝の革につつむを期せしに、今や却って汝を魚腹に葬る。
感慨よく止まらざるものあり。
乃ちその遺骨を所在に収め、これを青草氈の如き処に葬り、
一片の石を建て聊か以てその魂を弔うとしかいう。
野戦砲兵第六連隊第二隊長陸軍少佐 樋口匡直識